2014/01
ハンセン病に生涯を捧げた医師 小川正子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ15]

小川正子記念館を訪ねる
 12月も末の一日、山梨県笛吹市の小川正子記念館を訪ねてJR中央本線春日居駅を降りた。駅前に立派なロータリーがあるが無人駅で、案内所も一軒のお店も無く閑散としている。駅前に足湯があり親子連れが遊んでいた。
 駅前の甲州街道を石和方面に歩くと15分ほどで小川正子記念館を見つけることができた。笛吹市春日居町郷土館と小川正子記念館が併設されている。
 記念館には正子が女子医専で使用した医学教科書類、長島愛生園で使用した医療器具、愛生園の光田園長や患者達に出した手紙類、小川正子の日記などが展示されている。
 その他、ハンセン病についての説明、正子が女医として勤めた長島愛生園のこと、正子を巡る人々や正子の著作「小島の春」の映画制作などを写真とパネルで説明してくれる。
 入り口には小川正子の胸像があり、記念館脇には名誉町民小川正子顕彰碑が建っている。正子が肺結核を病んで帰郷し、療養した生家の一部が移築して保存されている。
 雲ひとつ無い冬晴れの日、真っ白な富士山が美しい姿を見せてくれた。
―― 参考資料 ――
 
小川正子と小島の春
    清水 威 長崎出版(1986)
小川正子と愛生園
    名和千嘉 (1988)
小川正子の生涯
    神田甲陽 雑誌「潮」(2000)
小島の春−ある女医の手記
    小川正子 長崎出版(1981)
――■ * ■――
 らい病は古くからある病気で旧約聖書にも出てくる。日本でも「日本書紀」に記述があるそうだ。
 先天的な遺伝による病気と考えられて社会的に差別されていた。知覚障害が起こり、皮膚が崩れると恐れられていたが、伝染病とは考えられておらず神社や寺院などで物乞いをし、隔離されていなかった。
 1871年にノルウェーの医師ハンセンがらい菌を発見して伝染病であることが判明したが、感染力が弱く潜伏期間も長いため感染経路が分かり難い病気であった。その後、プロミンやダブリンなどの特効薬が開発されてハンセン病は治る病気となった。現在でも全世界では毎年約25万人の新規患者が発生しているが、我が国では0〜1人で殆ど退治された病気である。

出身は山梨の素封家
 小川正子は山梨県春日居村で明治35年(1902)に生まれた。祖父の代に始めた養蚕業を父小川清貴が発展させて、200人を超える従業員が働く工場を経営していた。山梨県会議員も務めていた。母くには山梨師範を卒業後東京の女子高等師範を卒業した教養ある女性で、父母とも子供たちの教育に熱心であった。
 7人兄弟の正子は小さい時から読書が好きで、新聞を読み、理屈屋であったようだ。小学校の成績は優秀で男勝りの腕白であった。春日居小学校を卒業して甲府高等女学校に入学し、在校中は図書部、テニス部、談話部、園芸部に所属して文武両道の上、おしゃべり上手で学内の集まりでは司会を務める人気者であったが、良妻賢母主義の校風の中で無遅刻無欠席にも係らず級長には任命されなかったと云う。母が熱心なクリスチャンであるこから、正子も内村鑑三の無教会派キリスト教に傾倒して聖書を読んだ。
 学校を卒業すると19歳で親戚の樋貝詮三と結婚した。夫詮三は京都大学法学部を卒業して内閣書記官を務める官僚で、後に吉田内閣の国務大臣となり衆議院議長にもなる温厚な紳士であったが、勝気な正子とは性格が合わず離婚した。


医学を学ぶ
 正子は女医となって働く決心をすると、母と姉泰子の夫で帝国大学医学部卒の医師・石原重成が応援した。結婚していた3ヵ年のブランクを取り戻すため猛勉強して、大正13年に東京女子医学専門学校に入学した。成績は2番であったという。同級にはその後長島愛生園で同僚となる大西文子がいた。大西は市ヶ谷教会に通うクリスチャンで、同級にはクリスチャンが多かった。正子は内村鑑三の弟子の塚本虎二に就いて聖書を学んだ。
 女学校時代の修身の授業で、英国人宣教師ハンナ・リデル女史がらい療養所熊本回春病院を設立したことに感動した。女子医専在学中に同級生たちと東村山のらい療養所全生病院を訪問して光田院長に会っている。昭和4年に女子医専を卒業すると同時に光田院長を訪ね、全生病院の医師に採用して欲しいと頼むが、光田は家族と相談すること、先ずは大きな病院で内科や小児科の医師としての腕を磨くように説得した。
 正子は東京市立大久保病院内科に勤務して細菌学の研究をし、その後砂町診療所や泉橋慈恵病院小児科勤務をしたが、その間もハンセン病療養所で働きたいという意思は変わらず、母を始め姉妹や親戚まで皆大反対の中、岡山県立長島愛生園の院長になっていた光田院長に、長島愛生園の医師となる希望の手紙を出した。しかし光田は愛生園の医師の欠員が無いとして断った。
 光田健輔は日本のハンセン病研究の先覚者で、その功績により昭和26年に文化勲章を受章している。


長島愛生園へ
 備前焼の里、伊部から瀬戸内海へ出たところに虫明という町がある。瀬戸内海に浮かぶ小さな島 長島へは虫明から船で渡る。
 昭和7年に正子は長島愛生園で働く意思を固め、家族の制止を振り切って長島へ押しかけていったものの、医師の定員は一杯のため、当初は嘱託医師として働いた。正子の受け持ちは内科と小児科であった。
 小川正子は1934年に、正式な医官としての辞令を受けた。患者の治療に加えて、治療を受けずに一般の人の中で暮らしている患者を園に収容する業務を任された。ハンセン病は伝染力は弱くても家族感染が起こるので、患者はできるだけ早くに療養所に収容する必要がある。正子は病院の事務官と共に高知、徳島、岡山の各地を巡回してハンセン病の啓蒙活動を行い、患者を見つけては療養所へ入るよう説得した。患者は家族と別れなければならず、辛い仕事であった。正子は光田院長から、患者収容のため出張する業務の記録を残すように指導された。


小島の春
 啓蒙のための映画上映会を各地で行った。事前に役所や警察の了解を得て、映写会や説明会を開催する小学校などを借りるために歩き回った。行く先々でハンセン病が遺伝によるものと軽蔑されている不合理を説明し、伝染病であることを説明して歩く中で、各地で患者の情報を聞き出し、家族を説得して患者を収容する。
 その克明な記録が「小島の春」として昭和11年に出版された。お金が無いから病院には行けないと尻込みする家族に「お金は要らないから」と説得するなど、人類愛に満ちた感動的な記録として販売部数30万部を超えるベストセラーとなった。
 しかし正子は結核に侵されていた。医師としての業務を続ける体力も弱り、更には療養所の患者たちに感染させる心配もあるので、昭和14年に郷里に戻って療養することにした。長島愛生園で医師として働いた期間は7年間であったが、ハンセン病医師として光田院長と共に世間に知られる存在となっていた。
 ベストセラーとなった「小島の春」が映画化されることになった。映画監督は豊田四郎、主演女優は夏川静江、子役が中村メイコ、杉村春子も加わり、撮影の関係者が山梨の地元を訪れたので、正子は郷里で益々有名人となった。映画は戦時中にも係らず大ヒットしたそうだ。
 療養に専念した正子であったが当時は未だ結核病の特効薬が無く、昭和18年に帰らぬ人となった。今は知る人も少なくなった小川正子は、ハンセン病医師として生涯を捧げた女医であった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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